コミュニケーションドラマ あがり症が改善された夏
野口五郎はある有名大学の学生課に勤める職員。
今年、入社3年目を迎えたばかりだ。
コミュニケーションドラマ前編 あがり症のピンチ
「おい、野口。夏も近づいて、そろそろオープンセミナーの次期だな。準備しておけよ」
「えっ!今年も私がやるのですか!」
「当たり前だろう。手が空いているのはおまえだけなんだ。去年の汚名返上を頼むぞ。今年は200名の参加を目指してやるぞ」
「に、にひゃくめい!!・・・ですか!」
上司の西城課長からそう声をかけられてから、ご飯がのどを通らない。
去年の夏も受験を検討している学生の親50人を前にして、わが大学の素晴らしさを訴えるつもりだった。
しかし五郎は極度のあがり症。
昔から人前に立つと心臓が早鐘を打ち、のどが締め付けられるような感覚になる。
言葉は早くなり、間など全く置かずに話してしまう。
そのオープンセミナーでも、眉間に皺を寄せながら話を聞く人が目立っていた。
しかも5分もたつとスマホをいじる者、隣の人と話をはじめる者、居眠りをはじめる者、途中で退席する者などが続出しはじめる。
五郎がたまに顔を上げて聴衆を見ると、自分を見ている人などごくわずか。
さらにその貴重な人たちですら無表情で相づちも打ってはくれない。
その悲惨な状況が、彼のあがりをより強めることとなり、もはや自分でも何を言っているのかわからなくなる有様だった。
終了後のアンケートには、案の定そのほとんどに「言っていることがさっぱりわからない」と書いてあった。
このことで五郎は、一時退職を考えるほどのダメージを受けていたのだ。
それ以後のオープンセミナーは、先輩の桜田に代わってもらったが、彼女は今年出産で長期の休みに入っている。
上司はオープンセミナーの運営に関わるので、プレゼン役は五郎が引き受けるしかない。
一対一なら平気なのに、なぜ大勢相手にすると人はあがるのか
大勢を相手に話すとあがるのは、聴衆の反応が薄くなるからです。
一対一なら相手も気を使って相づちを打ってくれます。
しかし、大勢になると聴衆は「自分ひとりぐらい反応をさぼっても大丈夫」と手を抜きはじめます。
それはほぼ全員が同じ思いなので、みなが無反応で話を聞くこととなるのです。
これが話し手には辛い。
聴衆はうなづきもせず、笑いもしない。
その無表情な姿を見ると「自分の話はよほどつまらないのに違いない」と話し手は自分を責めながら話すことになります。
これがあがりをさらに強めることになるのです。
聴衆におもねるとますますあがってしまう
聴衆の反応をほしがると、弱気な人は彼らにおもねるような態度を取りがちです。
するとこんなことを冒頭で言ってしまいます。
「今日はお忙しいところをよくお出で下さいました」
「こんなに素敵な皆様にお出で頂けて、緊張しております」
「口下手なものですから、うまく伝えられるかどうか自信がありません」
そして聴衆を見ます。
どう? いっぱい反応してねと言わんばかりに。
ところがこれらの話は、聞き手にとっては聞く価値のないものです。
話は彼らの中を素通りするだけで、反応など起こるはずがありません。
その反応の悪さに、また話し手は緊張を深め、
それは自分の話し方が下手だからだと自己嫌悪に陥るのです。
実は、聞き手の集中力はスタート時が最高で、その後はどんどん下降します。
驚くなかれ、ものの30秒もしますと、集中力はスタート時の半分ほどに落ち込みます。
こうなってはもう挽回は至難の業。
ぴくりとも反応しない聴衆に、話し手は恐れおののき、ますます声が小さく早口になります。
話がうまい人は自己紹介すらせず、いきなり話しはじめる
人前で上手に話すためには、聴衆の反応を気にしないことが気づきにくい秘訣。
本当にうまい人は、自己紹介すら省いていきなり話をはじめます。
多くの場合、話し手がみなの前に立つ前に、司会が紹介してくれるはず。
聞き手はすでに話し手の名前や経歴を耳にしているのです。
だから余計なことは省いて、すぐに聞き手が聞きたいことを話せば、彼らも話にすんなり入って行けます。
聞きたい話、興味をそそられる話だと、聞き手の集中力は切れることはなく反応も大きくなります。
コミュニケーションドラマ後編 あがり症の逆襲
五郎は何かに救いを求めるようにしてネットを検索してみた。
すると「あがらない秘訣は聞き手におもねらないこと」というコラムを見つけた。
藁にもすがる思いで、そのスクールを訪ねプレゼンテーションの極意を学んだ。
いよいよオープンセミナーがはじまった。
集まった人たちは予定通り200人。客席は子供の将来を考える40代50代の親たちで満杯だった。
五郎は原稿も持たずに、静々と壇上に上がり、いきなりこう切り出した。
「皆様のご子息たちは、人生100年時代を生きることになります。
もはや初めての就職先で、そのまま定年を迎える人などいない時代になるのです」
突然、聴衆から「えっ!」という声が漏れた。
五郎が顔を聴衆に向けると、多くの人が彼に真剣な眼差しを向けている。
それを見ると、五郎の早い鼓動がすっとおさまった。
「これからの大学を選ぶ基準は、ただ一流企業に就職する割合が多いかどうかに置くべきではありません」
ここで間を置き聴衆を見ると、一番前の男性がごくりとつばを呑むのが見えた。
「これからは転職は当たり前の時代になります。会社を立ち上げる起業をする人もずいぶん増えます。
だから転職や起業に有利な知識と経験を積むことが、人生100年時代を生き抜く条件となるでしょう」
多くの人がメモをする姿が見えた。
「弊学で学ぶのはまさに21世紀が必要とするものばかりです。AI、バイオテクノロジー、食品管理、この知識と技術があれば皆様のご子息たちは社会から求められる人材に育つことは間違いありません」
気が付くと予定されていた30分があっという間に過ぎていた。
「ありがとうございました」と礼を言って壇上から下がる時には、拍手すら起きたのだ。
聴衆から見えない奥まった場所に上司である西城が両手を開いて待っている。
「おい、野口!本当におまえか。俺も感動したじゃないか。何をしたらこんなに変われるんだ」
西城は野口を抱きしめんばかりに腕をつかんで言った。
五郎はそこで初めて足が小刻みに震えていることに気が付いた。
「課長、吐きます。トイレ、トイレ」
夏の暑さがようやく五郎のもとに帰って来た。
人前であがらない秘訣:まとめ
- あがるのは聴衆に反応があまりないから
- 聴衆に媚びて「人前で話すのが苦手」とか「今日は集まってくれてありがとう」とか言うから余計に反応が薄くなる
- 聴衆の反応がないのは話が下手だからではない
- 聴衆の反応を欲しがらない
- 自己紹介も司会者がすませているなら必要なし
- 聴衆の集中力は初めの十数秒しかキープできない
- いきなり聴衆が「何を言い始めるのだ!」と聞き耳を立てるようなことから話しはじめる
- すると聴衆が話に引き付けられ、反応が起こりはじめて話すのが楽になる