私がコミュニケーションの世界に飛び込んだわけ
私が話し方教室を開校したのは平成元年、1989年のこと。
当時話し方教室など、アナウンサー養成校が片手間でやる程度の零細産業。
ご飯が食べられるほどの仕事ではなかったのです。
私には何の資格もないし、知識もない。
経験も何もない中でのスタートでした。
ほぼ暴挙。
たまたま講座のひとつとして行っていた花婿講座という婚活セミナーが話題になってマスコミで集中的に取り上げられてしまい、これがまた批判の嵐。
コミュニケーションなんて他人から習うものではない。
そんなところに行く人などいない。
教える人も習う人も、その気が知れない。
そんな中での船出だったのです。
世はバブル景気の真っ只中。
お金が全ての世の中で、コミュニケーションに悩む人のことなど世の中の多くの人はただの気の迷い程度にしか受け取ってはいませんでした。
ではなぜ私はこの世界に乗り出したのか。
それは私が世の中の人々のコミュニケーションにこんな印象を受けていたからです。
- 『見知らぬ人に働きかけて打ち解ける力がない。
- 共通する話題がない人と話すことができない。
- 話はしても気持ちが近づかない』
そう。
知っている人と話すことはできても、全くの他人、しかも共通するものがない人と話す力をみな持ってないじゃないか。
そんな感覚を持っていました。
これはいずれ日本の社会に大きな歪を生むことになる。
自分の力でそれを少しでも防げたら・・・
そんな偉そうなことも考えておりました。
ですが、この考えが今の私の講座の根幹を作っていることは確かです。
ところが。
いざ始めてみると、会話が苦手な人を上達させることがいかに難しいか、私は思い知ったのです。
初めの10年は本当に手探りで、全く自信を持てないあり様でした。
何しろ、今のようにコミュニケーション関連の本など皆無だったのですから。
私の話はつい難しくなりがちで、教室でも生徒の顔には「?」マークがずらり。
よく教室がつぶれずにここまで来たものです。
テキストを作っては破り捨て、また作り直しすること100回近く。
開校して十数年後のある時、私の口から不意にこんな言葉が飛び出たのです。
「会話は気持ちのキャッチボール」
生徒の口から「おぅ!」って言う言葉が漏れ出ました。
私もその瞬間に
「なんかいい感じ」
と思いました。
ベストセラーになった「誰とでも15分以上 会話がとぎれない話し方 66のルール」の根幹が出来上がった瞬間でもありました。
この本が出来るまでに、なんと19年の歳月が必要でした。
それまでずっと貧乏だったのです。
ずいぶん長くかかってしまいましたね。
自分でもびっくりです。
大手術やってきました
「今度手術することになってね」
と言うと、全ての人が
「どこが悪いのですか?」
と心配そうに聞いてくれます。
「痔の手術」
と言うと、またほとんどの人が
「ぷっ」
と笑います。
いやいや、笑うほど気軽じゃないのよ、本人は。
とは思いますが、部外者にとっては痔の手術など取るに足らない出来事なのでしょう。
でもやはり当人にとっては重大事。
手術前はビビりっぱなし。
先生から「大丈夫、大丈夫」と言われてお尻をピシピシ叩かれました。
2週間ぐらいは手術痕が痛んでトイレも大変でした。
長く座ってもいられず、電車でも立ちっぱなし。
あの、まあるく穴の空いた座布団のお世話にもなりました。
終わってしまえば、何のことはない。
いつか誰かから「今度、痔の手術を」と言われたら、
私も「ぷっ」と笑ってしまうかもしれません。
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